夜な夜な読書

ひとりの時間に現実逃避するブログ

悔しいけど個性が強すぎるとうまくいかない

詩人はつねに、自己をより価値のあるものに服従させなくてはならない。芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である。芸術とはこの脱個性化の過程に他ならない。

新版 思考の整理学 外山滋比古 ちくま文庫 2024/2/10

会社、または上長からの指示に対して、どうしても賛成できない場合がある。

部下たちの状況と上層部の考えていることの両面が見えている中間管理職だからこそ賛成できない。

ちゃんと上長と議論できて、お互い納得できるなら一番いいのだが、そうもいかない時がある。

一応僕も中間管理職なので、何かしら会社の方針に対して意見しないと管理職である意味がないと思っているわけで、わりと積極的に意見する姿勢はもしかしたら個性的なのかもしれない。

ところが、上長側からするとま〜色々事情もあるのだろう。

失敗すると分かっていても(もしかしたらそれすらも分かってないかもしれないけど・・・)方針を変えられない事情があったりする。

そして、こういう場合大抵被害を被るのは末端の社員たちだ。

みんな苦しい思いや、成果の上がらないグズグズした状況に追いやられ、それでもって上層部からのフォローは何もなし・・・

失敗した時にはなぜ失敗したんだ?どうして失敗するんだ?と責められるのは僕らの方である。

こんな悲しい状況、経験ないだろうか?

ほんと虚しくなるよね。。。

ある日僕の先輩が似たような状況になり、当時の上長と激しく戦った。

この先輩も自分と同じくわりと積極的(というか高圧的?)に意見する人だったのだが、数ヶ月後、その先輩は別の部署に異動させられた。

あ〜こうやってYESマン、つまり没個性化した人間だけが残っていくんだな・・・と思った。

それでも会社全体から見れば色々な事情があってそういう判断になっているんだろうから、組織のより多くの人々がその判断で助かるのだ。(と信じたい・・・)

会社の中で、自分なんていう個の存在は組織に勝てない。

必ず組織の利害が優先される。

これは自分の会社だけでなく古今東西どんな組織においてもこの法則が成り立つ。

そこでちっぽけな個性を強調しすぎると、あの先輩のように排除されるわけだ。

もちろん異動の理由は事実上の理由は隠され、異動先の部署で優秀な人材が必要になったため、だったそうだが・・・

多かれ少なかれ、会社の発展には、悔しいけどある場面では没個性化しないといけないようだ。

やれる人はもちろん会社をやめて独立したり、他の会社に転職したりするだろう。

ただ、結局なんらかの組織に属したり、取引先に頭を下げないといけない場合は同じ問題にぶち当たる可能性は高い。

つまり、この没個性化を受け入れないとうまくいかないのである。

理不尽な指示でも我慢して従う自分を最大限褒めてあげよう

社会人たるもの、どうしても理不尽な指示を受けざるを得ない場面はあるだろう。

頑固に戦ってもいいのだが、結局後々面倒なことになり、穏やかに済ませるのが最適解だったりする。

この現状どうにかならないものかと常々思う。

変なプライドや規則にもない空気(雰囲気)に縛られさえしなければ、無駄なことしなくてもいいのに、どうして長年のベテランたちは固執するのだろうか。

こうやって余計な仕事が増えるから生産性が上がらないんだな〜と思う。

建前では「生産性向上!」とか「働き方改革だ!」とか言うけど、どうやら本気ではなさそうだ。

改革に二の足を踏む輩が上長になると悲惨である。

とはいえ、すぐにはどうしようもない。

残念で腹立たしいけれども、ここは黙って指示に従っておこう。

そして、我慢した自分を最大限褒めておこう。

よく我慢したと。

アンガーマネジメントですね。

時間がかかっても、なんとか気持ちを入れ替えて、自分のやるべきことに集中する。

仕事が終わればあとはスキルアップを目指して取り組み、いつでも辞めれる自信をつける活動をしよう。

いずれいなくなると思えば気も楽になる。

日帰り温泉のちコーヒーと読書

今日は休日。

お昼までは何も予定がなかったのだが、突然妻が日帰り温泉に行きたい!と言ってきたので近くの旅館に行ってきた。

我が家ではこのように何の前触れもなく事が始まるという展開が少なくない。

本当は午後からゆっくりコーヒーでも飲みながら読書をして、飽きたら散歩でもしようかと思っていた。

でも普段の仕事みたいに予定を立ててその通りにこなすのもつまらない。

ここは流れに身を任せることにしよう。

県内には有名温泉地が3つある。

今日はそのうちの1つで、なかなかお高い旅館である。(日帰り入浴は一般的な相場)

利用時間は午後3時までで、まだ2時間ある。

家からの道中は随分と新しいお店が増えたなと思った。

おしゃれなカフェや飲食店が道沿いに並ぶ。

20〜30代と思しき人々も多く、それだけで若々しい活気を感じる。

会社は50〜60代のおっさんの巣窟。

生気のかけらもない。

そんな謙遜したことを考えていると旅館に着いた。

男湯は熱め、適温、水風呂、サウナ、露天の5種。

女湯は何種あったか分からないがそれよりも多かったらしい。

太陽はまだ高い位置にあり、内湯から見える外の中庭を明るく照らしている。

その陽光もあってか、まるで天国のようだった。

フロントで出迎えてくれるスタッフ、清掃の行き届いた館内、清潔感のある香り。

擦り切れた心が癒されていく・・・。

メンズの方が先に上がったのでレディースをロビーで待つ。

そこに宿泊客と思われる人たちがバスから降りてフロントに入ってきた。

家族、友人、海外の人、大学生。

楽しそう・・・。

まだまだいたい気持ちを何とか抑えて家路につく。

帰ってからはコーヒー飲み飲み小説に浸る。

今読んでいるのはフレデリック・フォーサイスジャッカルの日(上)』。

一般的には国際政治とかテロリストとの戦いといったジャンルだが、なかなかに中間管理職の苦悩が描かれる場面もあって共感を覚える。

いつの時代も、どこの国でも、どんな組織でも、中間管理職とは厳しい立場だなぁ・・・とつくづく思う。

いい仕事

「申し分ない」ジャッカルは静かにうなずいた。「望みどおりの出来だ」グーサンスは喜んだ。鉄砲のエキスパートとして、彼は何よりも賛辞を好んだ。また彼は、目の前にいる客もやはり、銃に関しては一流の専門家であることを知っていた。

いい仕事。

それを他人から評価してもらえることほど嬉しいことはない。

仕事でもプライベートでも、相手が唸るほどに褒めてくれた時はこれまでの努力が報われたなぁと思う。

そういうことが頻繁にあればいいのだが、これまでの人生でも数えるほどしかない。

僕は昔高校球児だった。

チームの中での実力はイマイチで、チャンスで打てず、大事なところでエラーをするような選手だった。

夏の県大会。

相手は甲子園常連校。

明らかに超高校級の選手たちだ。

投げる球も打った打球も次元が違う。

勝てる見込みなど万に一つもないような試合だった。

当然ながら試合は惨敗だったのだが、この試合で陰ながら奇跡が起こった。

相手の4番打者(超高校級中の超高校級の選手)がとんでもない高さの内野フライを打ち上げた。

後からチームメイトが教えてくれたのだが、どうやら僕以外のメンバーは皆打球を見失っていたらしい。

あまりの打球速度と高さでどこに飛んだのかわからなかったそうだ。

でも、僕だけは空に消えていく点をはっきりと認識していた。

観客から見れば特大の内野フライ。

それをキャッチしたところで何のファインプレーでもない。

でもチームメイトの間では一人だけ「オーライ!オーライ!」と叫ぶやつに全信頼を置くしかなかったようだ。

ここをしっかりキャッチした時、みんなから驚きと安堵の表情を向けられた。

その後、2年生ながら巧みなバットコントロールでヒットを量産する好打者に打順が回る。

彼は右バッターだ。

1塁には既にランナーが一人いて、先ほどの内野フライで1アウトである。

僕はセカンド。

やや2塁寄りの位置で構える。

初球、これまたとんでもない打球速度のセカンドゴロが飛んできた。

しっかり上から叩きつけるように打っているためだろうが、地を這うようなゴロとはこういうものなのだろう。

誰もがその強烈な打球を見て僕がエラーをするだろうことは容易に想像できた。

でも、ここも僕は奇跡的にもキャッチし、なおかつ2塁上で待っているショートに的確な送球をすることができた。

自分でも不思議なくらいスムーズに動けたのである。

自らの意識でさえグラブから弾く瞬間の映像が頭を流れるほどだったが、身体の方がちゃんと反応していたようだ。

相手スタンドから轟音のようなヤジを飛ばす控え選手たちも、僕がゲッツーを決めた後はすっかり黙り込んでしまった。

試合は圧倒的な差で負けてしまったのだが、この試合で陰ながらみんなの心に残るプレーを僕はした。

社会人になり、もうあれから20年も経つが、いまだにあの試合の話題になると「よく捕ったね」と声をかけられる。

いい仕事だったのだと思う。

このプレーがきっかけで戦況が変わるとか、競り勝つという状況ならもっとドラマチックだったかもしれない。

でも、自分の中でもそれまでひたむきに守備の練習をしてきた成果が報われた瞬間でもあった。

特大・強烈な打球とは言え、どちらも記録の上では単なる内野フライと内野ゴロである。

何の美辞麗句とも縁がない。

それでもチームメイトの心にはこの何でもないプレーが刺さった瞬間だったことは今でも嬉しい記憶の一つである。

日々廃れていく心だが、こういうことを思い出しつつ、あの最高の瞬間を味わえるよう気を取り直して取り組まなければと思うのである。

一流を目指す探求こそ目的

ジャッカルは明敏な男だった。貪欲に書物を読みあさり、小心なまでに慎重にプランを立てる。そして、現在はともかく将来において役に立つかもしれないと思うような情報を大量に、頭の中にたくわえていた。これは職業上の習慣であるが、やはり一つの才能であった。

ジャッカルとはフレデリック・フォーサイスジャッカルの日(上・下)』の作中に登場する一流の殺し屋である。

殺し屋自体は誉められた職業では全くないのだが、この一節には何か重要なものがあると感じて付箋を貼っておいた。

世の中に一流と呼ばれる人は何人もいる。

でも、決まって一流の人々は、「自分はまだまだ・・・」なんて謙遜する。

自分のことを「私は一流です。」なんて言う一流の人は見たことがない。

一流の中でも、さらに一流・二流・三流みたいに無限に細分化できるんだろうから、絶対的な一流っていうのはないのだろう。

先日、何かの記事で池上彰さんは新聞を11紙(だったかな?)購読し、毎日全紙に目を通すらしい。

もちろん一字一句全て読むわけではなく、その日のニュースの特徴だったり、新聞各社の記事内容の差を見ているそうだ。

これだけ見れば「池上さんは圧倒的に新聞を読むんだ。だから博学なんだな。」という印象を抱くだろう。

でも、僕は貧乏性なところもあって、どちらかというと見向きもされずに捨てられる記事が大量にありすぎて勿体無いとも感じてしまう。

1紙あたりの購読料は月に3,000円〜4,000円くらいだと思うので、11紙ともなると50,000円くらいになるだろう。

とても貧乏人には真似できないことだけど、そういう活用されない部分も含めて余剰とも思えるほどに投資できるってことは重要なことなんだと思う。

昔、國弘正雄っていう一流の同時通訳者の人がいたのだが、この人は只管朗読を提唱した人だ。

只管朗読とはただひたすらに朗読するということ。

一冊の英語の教科書を何百回も何千回もひたすら朗読したらしい。

一冊の教科書を使い回すのだから余剰投資はしていないように見える。

でも、それほどの時間を一冊の教科書にかけたという意味で、やっぱり膨大な投資をしたことは共通していると思う。

このように一流と呼ばれる人は圧倒的に量をこなす。それもほとんどが無駄になるかもしれないことも含んで膨大にこなす。

それを習慣としてこなす。

ゴールはないけど一流を探求する習慣がある。

この習慣こそ重要なのではないだろうか。

どーせ一流にはなれない・・・

そう思って何も行動しない場合もあるだろう。

でも、これまでの話の通り、一流になれないのは当たり前のことのように思う。

誰も絶対的な一流には辿り着けないのだ。

でも、一流を目指して探求する習慣をもつことには意味があると思うのだ。

その習慣を持つだけで、退屈に悩まされることはなくなるし、生きる意味について考えることもなくなる。

一流の定義が定まってなくてもいい。

今まで見てきた一流っぽい人をイメージするだけでもいい。

とにかくそういう人をぼんやりでもイメージしながら、じゃあそういう人になるためにはどうするのがいいのか。

何を習慣化するといいのか。

お金もできる範囲でいいから思い切って使ってみる。

時間もアホかと思われるくらい使ってみる。

無駄になることもたくさんあるかもしれないけど、自分の感性に従って、その中から重要なものだけを拾い集める。

それを何年も繰り返していたら、少なくとも今の自分よりは理想的な自分になっていると僕は思うのだ。

はじめてのミステリー小説

読書といえばビジネス書か哲学書

社会人になってからはもっぱらそういう本しか読んでこなかった。

若い時は娯楽をバカにしていた。

タナカ「パチンコなんて無駄でしかないですよね?やっててなんか意味あるんすか?」

上司「パチンコは必要だよ?それもとことんやるのがいいんだよ。」

そんなものに時間と金を使って、いったい何の意味があるのかと。

若気の至りで、当時だいぶ上の上司に食ってかかったことがある。

上司曰く、娯楽はなくてはならないと。

おいおい、、、パチンコはなくてもいいだろ・・・。寝言は寝て言え・・・。

マジでそう思っていた。

時は流れて中間管理職。

当時の上司の言葉を思い出したところだ。

中間管理職になると、これまで見えなかった会社の事情が見えてくる。

経営判断に近い立場になるとともに、メンツだの立場だの体裁だの、そんなもののために愚かな判断をする場面にも遭遇する。

間違っているとは思っても、組織(それも上層部)に対抗するのは得策ではない。

社畜を自覚しながらもグっと歯を食いしばる。

この時期からどーも自分の能力・スキルを高めようとする気持ちが失せていった。

仕事が苦痛でしかなくなる。

これまで何のために頑張ってきたのかと。

その頑張りの意味は何だったのかと。

急にハシゴを外された気分になる。

仕事への依存度が高い人はこういうふうになることもある。

頑張ったその先の延長線上にあるのがそうじゃなかった感。

生きてる意味=仕事 に近かったもんだから、え?じゃあ俺の生きてる意味って・・・?

そう感じることも多くなった。

ここでいつぞやの上司の言葉を思い出した。

娯楽はなくてはならないと。

当時の上司が同じ状況で、同じ思いで発した言葉ではないと思う。

でも、娯楽を楽しむ意味はある。

そういう生き方にも意味はある。

当然のことなんだけど、今更になって娯楽が必要だと腑に落ちた気がした。

本にはいろんなジャンルがあるけれども、ミステリーは取っ掛かり安く、読み進めやすい印象があった。

それに妻がミステリー好きなこともあって家には何冊か既に置いてあった。

ふと手に取ったのは、くわがきあゆ『レモンと殺人鬼』

表紙の女性がめっちゃこっち見てる・・・。

でも、何だか気になる・・・。

何の前評判も見ることなく読み始めた。

当然ながらこれを仕事に活かそうと思うと、相当高度な抽象化をしないといけないのでそれはしない。

純粋に小説を楽しむことにした。

やるせない気持ちになった時は、無理しないで心の休養も必要。

長いサラリーマン人生でこれまでは短距離走の走り方だったのかな。

しばし休憩して、まだ半分以上も続く道を走り切る術を身につけねば。

そのうち自分も主人公である小林美桜のように、真逆の立場に気づく時が来るかもしれない。 (人殺しはしないけどね)