ジャッカルは明敏な男だった。貪欲に書物を読みあさり、小心なまでに慎重にプランを立てる。そして、現在はともかく将来において役に立つかもしれないと思うような情報を大量に、頭の中にたくわえていた。これは職業上の習慣であるが、やはり一つの才能であった。
ジャッカルとはフレデリック・フォーサイス『ジャッカルの日(上・下)』の作中に登場する一流の殺し屋である。
殺し屋自体は誉められた職業では全くないのだが、この一節には何か重要なものがあると感じて付箋を貼っておいた。
世の中に一流と呼ばれる人は何人もいる。
でも、決まって一流の人々は、「自分はまだまだ・・・」なんて謙遜する。
自分のことを「私は一流です。」なんて言う一流の人は見たことがない。
一流の中でも、さらに一流・二流・三流みたいに無限に細分化できるんだろうから、絶対的な一流っていうのはないのだろう。
先日、何かの記事で池上彰さんは新聞を11紙(だったかな?)購読し、毎日全紙に目を通すらしい。
もちろん一字一句全て読むわけではなく、その日のニュースの特徴だったり、新聞各社の記事内容の差を見ているそうだ。
これだけ見れば「池上さんは圧倒的に新聞を読むんだ。だから博学なんだな。」という印象を抱くだろう。
でも、僕は貧乏性なところもあって、どちらかというと見向きもされずに捨てられる記事が大量にありすぎて勿体無いとも感じてしまう。
1紙あたりの購読料は月に3,000円〜4,000円くらいだと思うので、11紙ともなると50,000円くらいになるだろう。
とても貧乏人には真似できないことだけど、そういう活用されない部分も含めて余剰とも思えるほどに投資できるってことは重要なことなんだと思う。
昔、國弘正雄っていう一流の同時通訳者の人がいたのだが、この人は只管朗読を提唱した人だ。
只管朗読とはただひたすらに朗読するということ。
一冊の英語の教科書を何百回も何千回もひたすら朗読したらしい。
一冊の教科書を使い回すのだから余剰投資はしていないように見える。
でも、それほどの時間を一冊の教科書にかけたという意味で、やっぱり膨大な投資をしたことは共通していると思う。
このように一流と呼ばれる人は圧倒的に量をこなす。それもほとんどが無駄になるかもしれないことも含んで膨大にこなす。
それを習慣としてこなす。
ゴールはないけど一流を探求する習慣がある。
この習慣こそ重要なのではないだろうか。
どーせ一流にはなれない・・・
そう思って何も行動しない場合もあるだろう。
でも、これまでの話の通り、一流になれないのは当たり前のことのように思う。
誰も絶対的な一流には辿り着けないのだ。
でも、一流を目指して探求する習慣をもつことには意味があると思うのだ。
その習慣を持つだけで、退屈に悩まされることはなくなるし、生きる意味について考えることもなくなる。
一流の定義が定まってなくてもいい。
今まで見てきた一流っぽい人をイメージするだけでもいい。
とにかくそういう人をぼんやりでもイメージしながら、じゃあそういう人になるためにはどうするのがいいのか。
何を習慣化するといいのか。
お金もできる範囲でいいから思い切って使ってみる。
時間もアホかと思われるくらい使ってみる。
無駄になることもたくさんあるかもしれないけど、自分の感性に従って、その中から重要なものだけを拾い集める。
それを何年も繰り返していたら、少なくとも今の自分よりは理想的な自分になっていると僕は思うのだ。